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努力論感想

読み終わった本は感想を書く、と決めたので書くわけだが、この手の本は感想書こうとすると超長くなってしまう。辛い。

 

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)

 

  タイトルに惹かれて読んでみた。あとがきを読んで知ったのだが、露伴本人としては、「もっと気楽に生きればいいのに、世の中の人は難しく考えすぎる。人生楽しんでいくためのきっかけになれば」と思って書いた本らしい。そんなことはタイトルからは全く推測できない。

 内容としてもタイトルにある「努力」に関しては2~3割程度しかない。残りは「福」についてだとか「氣」についてだとかについて書かれていた。特に「氣」についてがやたらと多い。

 

 気に止まった点は3つあった。冒頭にあった努力の種類がひとつ。福の概念。張る氣と散る氣について。張る気と散る気については2/12 - はきだめ2/20 - はきだめあたりにちょっと書いた。

 

直接の努力と間接の努力

 努力の種類についてはこの本の冒頭にて以下のような文章から始まっている。

努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。

 直接の努力と間接の努力があって、目の前の事に力を注ぐのが直接の努力。間接の努力は基礎力を鍛えるものだそうだ。直接の努力だけでもある程度はこなしていけるが、基礎力を鍛えなければ、いつかは結果がでなくなる。基礎があってこそ、直接の努力は実る。

 この文章に触れたとき、ふとイチローを思い出した。何の記事だかは忘れたが努力の天才といったような事が書かれていたことを覚えている。あまり具体的な練習内容は覚えていないが、目につかない小さな努力をコツコツと淀み無く続けていたようだった。そういったものがここでいう間接の努力だろう。

 

 福の概念は、今風にいうとチャンスのようなものといえると思う。福にもいくつか種類があって、すでに福を持っている状態である有福、得た福を全て消費しないようにする惜福、福を皆でわかちあう分福、将来福を得るための植福がある。

有福は祖先の庇陰に寄るので、尊む可きところは無い。惜福の工夫あるに至つて、人やゝ尚ぶ可しである。分福の工夫を能くするに至つて、人愈※(二の字点、1-2-22)尚ぶ可しである。能く福を植うるに至つて、人眞に敬愛すべき人たりと云ふ可しである。福を有する人は或は福を失ふことあらん。福を惜む人は蓋し福を保つを得ん。能く福を分つ人は蓋し福を致すを得ん。福を植うる人に至つては即ち福を造るのである。植福なる哉。植福なる哉。

  福沢諭吉学問のすすめでも通じるところがあると思う。学問のすすめでは人が平等ではないのは学問をしたかどうかに依る、とある。生まれたときにすでに有る貧富などの差は祖先の学問をしたことに依るということだ。努力論で言い直すと、それは有福となり、祖先からみると自身の成長と家の繁栄のための植福の行為となるだろう。

 

張る氣と散る氣

 リンクを貼った通り以前に書いてるのであまり書くことはないが、この本の中で僕にとって最も重要なポイントだった。集中力を鍛えるというのは散る気の習慣を排除することから始まる。同時に何かをこなそうとすることが既に集中力を阻害している。一時一時を一つの事のみに集中して取り掛かること、それを続けていくことで集中力を維持できるようになる。要は集中することも慣れなのだ。あれもこれもとコンテキストスイッチが発生しまくるような物の考え方はやめることにしよう。

 そういえばプログラミングの世界でも「帽子をかぶり直す」ように、やることを明確に分けて考えようと言われている。実装時は実装のことだけに集中し、リファクタリングするときはリファクタリングだけに集中する。

 

 努力というと、耐え忍んで石にかじりついてでも目標を達成しようと苦労することだと言い、ネガティブなイメージを持つ人も少なくないように思う。これに対して露伴はこういっている。

努力は好い。併し人が努力するといふことは、人としては猶不純である。自己に服せざるものが何處かに存するのを感じて居て、そして鐡鞭を以て之を威壓しながら事に從うて居るの景象がある。
努力して居る、若くは努力せんとして居る、といふことを忘れて居て、そして我が爲せることがおのづからなる努力であつて欲しい。さう有つたらそれは努力の眞諦であり、醍醐味である。

要するに、「楽しんでやりゃーえーねん」。なんで関西弁で書いたかは自分でも分からないが、そのくらい単純でいいと思う。