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 割とさっくり読み終わった。5部(本の中では~回目と、部ではなく回数であらわしている)構成になってて、それぞれに設問があるんだけど、最後の随筆が選択式じゃなくて該当する文章抜き出せとか本文中の語句を使って回答しろとかでかなり苦戦した。が、総じておもしろかった。特に前半。

 

 内容自体は入試対策が主目的なので、点の取り方に重点が置かれてるわけだけども、題材の選択が秀逸だと思う。例えば、一回目の題材は早稲田大学のいつぞやの入試問題のようで、主な部分を抜き出すと以下のような内容だった。

われわれはものを読むときには、テクストの文字、文章をあるがままに見、読んでいると考えている。実際は、しかし、決してそうではない。

 ここから次につながる。

いかなる読者にも必ずなにがしかの先入主がある 

 といっている。要は、著者の言わんとしていることは著者自信の「個人言語」で記述されており、それを読者も読者自身の「個人言語」で解釈しているということ。この本の一回目の主目的は論理的に文章を捉えることなんだけど、それと並行して題材から言葉の持つ危うさを説いている。

 次の2回目では藤沢令夫の「言葉」を題材にして言語論に触れている。

夕暮れちかく、私はいま、窓の外に濃淡をなして重なり繁る緑の木の葉に見入っている。

これを受けて次のように述べている。

「緑の木の葉」という言葉の向こう側には、このような純個別的で純瞬間的な「事象」の具体的全体がある。これに反して、言葉はその本性上、一般的なものを固定的にしか表現できないようにできている。

 「わたし」はいま、「緑の木の葉」の濃淡の重なりに心動かされているわけだけど、その心動かされているものは「緑の木の葉」という言葉は一般的で、固定的な表現でしかない。つまり、言葉は事象を正確に表せられない。

 

 というふうに、題材によって言葉に対する理解を深めると同時に、真面目に試験対策している。2回目の後半はプラトンの言葉嫌いを意味する「ミソロゴス」と言葉好きの「ピロロゴス」の話も出てきたりしてるのでなんて俺得な内容なんだとか思いつつ読んでた。ミソロゴスは言葉が事象をしっかり表し得ないことに気付き、言葉を信用せず、ピロロゴスは言葉を鵜呑みにし、語弊はあるが、実際には如何なる物体も表さない言葉(例えば正義だとか愛だとか)のために動く。

 

 この1回目の題材と2回目の題材で、著者が読者に対して言葉をどう捉えて欲しいかを伝えてきている。言葉を正しく扱うのはとてもむずかしく、厳密にいうと、自分の言いたいことを相手にそのまま伝えることは不可能だ。だって、言葉は一般的で、固定的な表現だから、今、この瞬間の自分の気持ちをそのまま意味しているわけじゃない。そういう危うさを持っているということに気づけたなら、ピロロゴスでは無い。では、ミソロゴスでもいいのか。言葉と距離を置いて生きていくのか。言葉とどう付き合っていくべきか、考えてみよう。というのが、1回目、2回目の題材を通しての著者の思いだと思う。

 

 結局のところ、言葉を正しく扱うよう、意識するしかないのだと思う。考えるとき、話すとき、書くとき、言葉を使う。なんとなく扱っている「個人言語」を育てていくしか無い。注意深く自分の気持ちや考えを、どの言葉を使って表すべきか、畏敬を持って接するべきなんだろう。

 ちょっと話は変わるけど、「言の葉」という響きが好き。この「言の葉」を確かなものにしていくことで、幹も太く立派になる。その幹が自分自身の思想。言葉を正しく扱っていくことで、自分の考え方も深く、明確になっていくんだと思う。

 

 後半の3回目~5回目もおもしろかったんだけども、前半が秀逸だったので省略。この本はシリーズ物の1冊目で残り2冊あるようだ。後半になるほど受験対策の風味が強くなっていったので僕は買わないつもりだけど、受験生にならおすすめできる。そんな知り合いにいないけどね。

 

 こういう、言葉をどう捉えるか、というような内容の文章はどれでも惹かれる。多分僕自身、どう捉えるべきかまだ迷ってるところがあるからだと思う。とはいえ、プログラミング系から外れる本ばかり読んでてもアカンのでほどほどにしないと。。と思いつつこの著者の文学史の本買ってしまった。アカン。

早わかり文学史 (中継新書)

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やっぱり長くなった。なんでなのか。

 

以上。